2012年2月2日木曜日

楽しいからこそ疲れることも承知して

美術館で全く背景を知らない作家の作品を鑑賞するのは楽しい。
私は鑑賞に時間がかかるので一人で行くことが多い。
全ての作品をくまなく観るためではなく、
心魅かれるものと出逢ったときの余韻を大切にしたいから時間をかける。

詳しいことはよく憶えていないが、私が忘れられないインパクトを受けた美術館の一つはパリのピカソ美術館、そして鎌倉・神奈川県立近代美術館で観たスペインの彫刻家、エドゥアルド・チリーダの作品。今日浮かぶのはその二つ。

先週末から99名の学生による、香りのビジュアルデザイン作品を鑑賞している。
ただ眺めて色々感じるだけでなく、この課題を課した私は一つひとつ評価しなければならない。正直に言ってしまえば、成績評価提出期限までの時間さえもっと余裕があれば、こんなに刺激的で楽しいことはない。半年間私の講義を受けてきた学生が、自身の背景と向き合い、一つの香りと向き合い、ファッション観を視覚化する。大変な作業だったことと思う。表現の楽しさと苦しみを同時に感じたことと思う。だからこそ提出作品一つひとつにかけがえのない重みがある。

彼らの作品を丁寧に観ていくことは、世間の評価がある程度つけられてしまった美術作品を鑑賞するよりもはるかに面白いと思うことも多い。それは私の考え方として、ふたつの鑑賞法を持っているからかもしれない。

1,表現から感じることを受け止めた私の第一印象をまずは大切にする。
2,表現に至るプロセスや背景も合わせてよく読み、表現とのつながりを考える。

1には直感というか直観というか、素早い感覚反応が働く。シンプルな驚きであったり、ミステリアスな謎であったり、次々と想像の扉を開くようなインパクトであったりする。時には「ああ、残念、時間がなかったのね、」と完成度のレベルが一目でわかることもあるが、それでも表現の一端は感じ取れる。美術館などで鑑賞するならここまででも十分楽しめる。しかし、大学の私の課題ではこの段階だけでは評価しない。2を踏まえて総合的に評価する。

一つの作品には一人の作者のこれまでとこれからへの気持ちが凝縮されている。自分の講義でこのような課題を課すことを7年続けてくると、2を踏まえなくても、1の初見だけで全体的なことが感じられるようになってくる。だから楽しいだけに余韻も残る。余韻を考慮せずに次々と作品を眺めると、私の感覚はまるでデリケートな嗅覚のごとく疲弊する。

楽しいからこそ疲れることも承知して。
驚きも謎もインパクトも脳のエネルギーを消耗させる。
一つの作品から多くを感じたら、その余韻を楽しみながら次の作品を見る前に軽く気分転換する。お茶を飲んだり、音楽をきいたり。前の作品の余韻を消してからフレッシュな感覚で次へ。こうすれば疲れないし、疲れた感覚では鑑賞も評価もできない。次の作品への好奇心を待つのも楽しい。



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